「鏡」


  人も皆寝静まった真夜中の事、ある大きな館の中・・・。


 薄暗い地下室で、男が鏡に向かい立っていた。背の低い男だった。醜い男だった。 思わず顔を背けずにはいられない容貌だった。
 鏡の他は何もないその部屋で、蝋燭の灯りを手に、男は鏡を見ていた。 鏡は男の背丈よりも大きな物で、枠には精巧な彫刻が施されていた。
 額に汗を浮かべて、男は念をこらしていた。もう幾日も、幾月も前から念じ続けていた。 人が皆寝静まる真夜中に、毎晩。始めは男の姿が映るだけであった。男は念じ続けた。 そのうちに鏡の中に白いもやのような物が現れ始めた。そして今日、男は見た。鏡の中に映る景色を。 それは自分自身が見たこともない通りを歩いているものだった。幅の狭い路で両側は赤い煉瓦造りのアパートらしい。 突然、上方から小さな植木鉢が降ってきた。それは男の肩をかすめ、地に落ちて砕けた。景色は揺らいで消えた。



 数日後のこと。男は所用で出かけていた。初めての街にもかかわらず、男はその通りに見覚えがあった。 赤い煉瓦造りのアパートが立ち並ぶ幅の狭い通り。男は感慨深げに歩いていった。
「危ない!」
 突然、声と共に植木鉢が降ってきた。鉢は男の肩をかすめ、地に落ちて砕けた。
「大丈夫ですか?」
 右側のアパートの住人が上から声をかけてくる。男は無言で砕けた鉢を眺めていた。
「大丈夫ですか?」
 近くを歩いていた女性が声をかけてくる。男は突然大きな声で笑い出した。
「あの・・・どっか打ったんじゃ・・・」
 男は狂ったように一頻り笑い、再び突然平静に返る。
「いや、大丈夫です。失礼。」
 男は足早に歩き去った。女性は慌てて降りてきたアパートの住人と顔を見合わせ、肩を竦めあった。 『どっかおかしいんじゃないの?』と。



 きっかけは一冊の本にある。男は偶然、それを見つけた。 題名のない厚い皮表紙本で、男の家の膨大な蔵書の中に埋もれていたのである。 先の地震で崩れ落ちた蔵書の整理をしていた所、羊皮紙と麻紐で頑丈にくるまれで出てきたのだ。それは、魔術書だった。 悪魔の事、まじない、術。鏡に念をこらす・・・それは鏡に悪魔を憑依させる術だった。男はその内容を信じた。
 そして何ヶ月もの間念を凝らし続け、悪魔が憑依した鏡に未来を映し出す事に成功したのだ。 これが笑わずにいられようか。



 それから男の周りで奇妙な事が起こり始めた。人が次々に死んでゆくのだ。 男の容貌を笑ったメイドや財産目当ての親戚達が、あるいは車に撥ねられ、あるいは列車が脱線し、死んでいった。 人々は相次ぐ不自然な事故に眉をよせ、声をひそめて噂しあった。その間にも人は死んでいく。 噂は噂を呼び、男は魔法使いとなった。
 そう、勿論すべて男の仕業だ。簡単な事だ。鏡に向かい殺したい者の未来を映しだす。 そして、念じればいい。不幸な未来を。鏡の中の世界は思いのままに動き、人は実に簡単に死んでいく。 何と脆いものだ。この力さえあれば、もう、笑う者はいない。最高だ。恐れるがいい。敬え!偉大なる魔法使いを!
 男は毎晩鏡を覗く。鏡に映し出された未来は、数日のうちに必ず現実の物になった。 警察の尋問を受けた事もあるが、勿論男は無実だ。そして数日後にはその警官も不幸な事故に遭う。
 鏡には毎晩人の未来が映し出される。子供のころに男をあざ笑った級友や教師。仕事のライバル。 男を冷たく振った女ども。パーティーに呼ばなかった知人。
 男は笑みを浮かべて鏡に見入る。ポーカーで勝ちすぎた友人。荷物を取り落としたポーター。 コーヒーをかけたウエイトレス。通りでぶつかった若い男。注文通りに仕上げなかった散髪屋。 味の気に入らなかったコック。財布から金を抜こうとした娼婦。
 男は笑いながら鏡を見つめる・・・。



 ある激しく雨の降る夜のことだった。男はいつもの様に鏡を覗いた。 最近はたいした事件もなく、退屈な日々を送っていた。人々は男を恐れ、逆らう者も無く、男の視線を避けてこそこそと歩く。 男は退屈していた。鏡を見る時でさえも、以前のような笑みは消えていた。鏡を利用して殺すべき相手も今はいない。 その必要もない。路を歩くと野良犬でさえも尻尾をたらし、男を避けて通るではないか。 全てを憎んできた男は、今、憎むべき対象を失い、困惑していた。男は退屈していた。その鏡を覗くまでは。
 鏡に映し出すべき相手もいないまま、なんとなく覗いた鏡。いつものように白いもやが形をとり始める。 退屈に濁っていた瞳が大きく見開かれた。もやは男の姿を取り、あろうことか語りかけてきたのだ。
『お前には感謝する。』
 冷たい声だった。男の額に汗がにじむ。
『おかげで随分たくさんの魂を頂戴した。中には美味くないモノもあったが、贅沢は言うまい。』
 外の雨音も届かない静か過ぎる地下室に、鏡の声は不吉に響く。男はようやく声を出したが、その声は擦れていた。
「お前は・・・何者だ。」
 鏡の中の自分は声を立てずに笑い、それにあわせて蝋燭の灯りが明滅した。
『自分で呼び出しておいて何者だ、もあるまい。この鏡に取り憑いた悪魔だよ。』
「その悪魔がなんの用だ。」
 男は声をはり、平静を装った。偉大なる魔法使いに恐ろしいモノなどあるはずがない。
『礼を言いにきた。さっきも言ったがお前のおかげでたくさんの魂を喰らう事ができた。お前の憎しみも喰った。美味かった。』
 鏡の中の姿が歪み、形を変え始める。
『もう充分過ぎるほど喰ったのだが、ここは居心地が良くてな、つい長居をした。しかし最近はろくなモノが喰えぬ。お前の恨みも憎しみも味が落ちた。後お前から喰えるモノは一つしかない。礼を言いがてらそれを戴きに来た。』
「ひとつ・・・とは・・・。」
 言葉は途中で途切れた。鏡の中に男はあるものを見いだし、絶叫した。
『お前の恐怖だ』
 男にその声が聞こえたかどうかは定かではない。


 館の邪悪な魔法使い。その日を境に人の噂は変わっていった。館の狂人・・・と。






作者より
作中の魔術は「スペキュラム」と言いまして、実在します。 非常に危険な黒魔術ですので、決して真似をすることの無いように。・・・・・・死にますよ・・・・・・。

転載:2006.5.25
初出:2001.1.28 「EVER GREEN」