「月に恋した木」




 ある晩、深い山の奥深く、山と山とに抱かれた大きな湖のほとりで、小さな芽が顔をだしました。土をふるい落とし、生まれたばかりのその目に映ったのは、夜空に輝く月。小さな命は問いました。
「ねぇ、あの輝きは何?遠く、高い、あの輝きは?」
 答えたのは夜の風。
『あれは月だよ。夜の女神、光る君だよ』
 小さな命は見上げます。月を。思いを込めて。
「光る君・・・」


 小さな命は成長します。毎日、毎晩。少しずつ、それでも精一杯急いで。背を伸ばし、手を伸ばし、『光る君』に届きたくて。一生懸命育ちます。一年、二年。彼の奇行は森中の噂となり、仲間はそんな彼をなだめようと、さまざまに声をかけます。
「およしなさい。そんな無理をしても、月に届く訳がないでしょう。」
 けれど彼は月を見上げて首を振ります。
 五年過ぎ、十年が過ぎても、想いは募るばかり・・・。
 ある者はこう言いました。
「お前はそういう無茶をして月に届いてどうしようって言うんだね。そんなことよりやらなきゃいけないことが、他にあるだろう。お前の兄弟たちをごらん。立派に育って、もう子供までいるじゃないか。なのにお前ときたら、背ばかりのびて・・・。」
 それでも、彼は月に目を向けたまま、答えもしないのです。
 彼は成長を続けます。二十年、三十年。いつしか森一番ののっぽになって、しかし月に届くはずもなく、背を伸ばし続け・・・。もう誰も何も言いません。森から一人頭を突き出して月を見上げる彼を、仲間は見守ることしかできません。


 どれほどの年が過ぎたでしょう。湖を取り巻く木々は深く広く生い茂り、緑の海のように波打っています。その外れ、湖のほとりにひときわ背の高い木が一本・・・。彼は今夜も月を見つめています。
「光る君・・・どうしてもあなたには届かないのですか?」
『そうでもないよ』
 声と共に一陣の風が吹き抜けました。
「君は・・・あの夜の風・・・。」
 風は無言で木に吹き付けます。やがて木はゆっくりと傾き始めました。たくさんの木々と、風と、月とが見守る中、彼は大きな音を立てて湖へ倒れました。
 数刻後、倒れた木の先端は、湖に映った月に触れていたそうです。

 彼は幸せだったのでしょうか・・・。




転載:2006.5.25
初出:2001.2.26 「EVER GREEN」
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