ある夕暮れ、一人の天使が小さな光を連れて降りてきました。
天使は生まれるのを怖がっている魂に世界を見せてあげるつもりでいるのです。魂はぴったり天使に寄り添い、ぎゅっと目をつぶっています。さて、天使は魂に言いました。
「さあ、目を開けて見てご覧なさい。」
魂はそぅっと、恐る恐る目を開けました。そこには、今まで見たことのないような、雑多な世界が広がっています。
「見えましたか?これが人の世界です。もうちょっと近づいてみましょうね。」
天使は静かに降りていきます。小さな光はおののいて天使にしがみつきました。
最初に、天使は魂を一つの窓へ連れていきました。
家族の団欒のひとときのようです。お父さん、お母さん、小さな女の子が微笑み合っています。
「あの人たちは家族です。お父さん、お母さん、お嬢さん。でも魂であるあなたには別のものも見えるはずです。
何が見えますか?」
そう言われ、覗いた魂はそこに人を見ました。そして。
「ハナ」
「そう、花です。きれいに咲いているでしょう?」
お父さんは大きな赤い花。お母さんは柔らかい桃色の花。娘さんは小さな白い花。それぞれに綺麗に咲いています。
いつもいる所に似ている、と魂は思いました。
「あの花はあなたにもあるのですよ。人は皆、人は心に花を持っているのです。」
まるで丹精込めた花壇のようなその窓を、魂はいつまでも見ていたかったのですが、天使は言いました。
「さあ、次の場所へ行ってみましょうね」
そして、2人はその暖かな花壇を後にしました。
一人の少女が道を歩いていました。少女の花は俯いて輝きを無くしてしまっています。
「あの少女は今日、友達と喧嘩をしてしまいました。ひどく後悔しているので、花は沈んでしまっています」
先ほど花びらの一枚までもが、生き生きとしていた花を見た後です。小さな魂にはそれはまるで、枯れかけているかのように映りました。
「カワイソウ」
「大丈夫。見ていてごらんなさい」
よく見ると少女は一軒の家の前を行ったり来たりしています。そして、意を決したように呼び鈴を押しました。すぐにもう一人少女が出てきました。その子の花も沈んでいるようです。しばらく小さな声で話をしていましたが、やがて、ほら。
2人の花は急に輝き始めたではありませんか。見ると少女達も涙を流してはいますが、笑顔になっています。
「見ましたか?心の花は哀しいと萎れてしまいますが、嬉しいと綺麗に咲くものなのですよ。」
天使の言葉に魂は心から良かったと思いました。
「さぁ、次の場所へ行きましょう。」
気がつくと空には月が昇っていました。
天使と小さな光は、その月の光のよりもひっそりと空を行きます。
次に連れていかれたのは、建物の中でした。広い空間で多くの花が萎れてしまっています。
「ドウシテ?」
「真ん中の棺をご覧なさい。今日あの人が亡くなったのです。ここにいる人たちは悲しんでいるので、花が萎れているのです。」
魂はたくさんの萎れた花を見渡しました。
「カナシイ・・・」
確かにみな悲しみに沈んでしまっています。けれど、ただ一輪不釣合いな程に綺麗に咲き誇っている花を見つけました。
中央に安置された棺に、見事な花が咲いているのです。輝かんばかりの大輪の花です。
「ご覧なさい。あの人は亡くなった後まですばらしい花を咲かせていますね?多くの人を愛し、多くの人に愛されれば、肉体が果ててもあんなに美しいのです。ここにいる人たちの花も、今は萎れてしまっていますが、あの人を思うたびに、その花は輝くでしょう。」
「オモウ・・・タビニ?」
「そうです。人との別れはとても辛いことですが、たとえ二度と会えなくても思い出は残ります。そして、憶えている限り、誰も世界の何処からもいなくなったりはしないのです。あの、花の様に。」
「オモイデ・・・」
思い出という言葉は、小さな魂のさらに小さな心をくすぐりました。なんとなく、大事な言葉の様に思えたのです。
「さあ、次の場所へ行きましょう。」
月はすっかり西へ傾いています。星々の幽かな光の中、一番眩しいのはこの魂でしょうか・・・。
けれど、それは人には見えない輝きです。
次に連れて行かれたのは大きな街でした。
そこは本当に大きな街で、たくさんの家が建っています。けれど家々の明かりは一つもついていません。夜中だというのに大勢の人が外に出ていますが、花も咲いていません。よく見ると建物は崩れ落ち、そこ此処に傷を負った人が丸太のように倒れ、風は怒ったように吹き荒れています。聞こえて来るのは啜り泣きと、怒声、耳を聾するばかりの轟音。時折輝く明かりが静まると、更なる人が倒れ・・・。
「コワイ。コワイ」
「この人達の心の花は枯れてしまいました。憎まれ、傷つけられ・・・。そして、自ら傷つける時、心の中の花は枯れてしまうのです。」
その地は苦しみや哀しみ、そして憎しみで満ちていました。恐ろしさにぴったり寄り添う魂に天使は優しく微笑むと、静かに一点を指差しました。
「あれを。」
指差した先にいたのは、赤ん坊を抱いてうずくまっている女性が一人。女性の花はすっかり茶色く枯れてしまっています。けれど、何故だか幽かな輝きを放っているようなのです。
見て。
彼女の腕の中で赤子は生まれたばかりの美しい花を咲かせています。赤ん坊が笑いかけるたびに彼女の花が少しずつ色を取り戻していくのです。彼女は幸せそうに子供に微笑みかけています。
その微笑みは小さな魂の恐れを和らげました。それに枯れかけているというのに、女性の花は今までのどんな花より綺麗に見えるのです。
「あの女性は昨日赤子を産み落としました。この争いの中、亡くなってしまった男性の子供です。夫を亡くし、彼女の花は枯れてしまいました。争いを憎み、夫を殺した人間を憎み、世界のすべてを恨んで枯れてしまったのです。けれども、あの笑顔を見ましたか?彼女の花は、また、咲こうとしています。」
枯れた花がまた、咲こうとしている。それは魂にもわかりました。いえ、感じました。
「彼女の花を咲かせたのは、あの赤子です。赤子はあなたの様に魂だけの存在から、人間の子供になりました。人は人の花を枯らせてしまいます。とても哀しい事です。
けれども人の花を輝かせる事ができるのも、又、人だけなのです。よく覚えておいて下さい。」
小さな魂はじっと見つめました。たった昨日まで自分と同じ魂だった赤子はまるで見つめ返しているかのように、顔をあげました。まるで何か語りかけているかのように。
「さあ、次が最後の場所ですよ。」
天使はそこをゆっくりと飛び去りました。赤子はまだこちらを見ているようでした。
夜が明けようとしています。世界は静まり返っているようでした。東の空がほんの少し明るくなってきたようです。
最後に連れて来られた所・・・そこは小さな部屋でした。
暗い部屋に一組の男女が並んで眠っています。部屋の中は細々としたものが積み上げられ、枕元には紙袋が置かれています。
「?」
「ここはあなたの家です。あの人達はお母さんとお父さん。ご覧なさい。お母さんのお腹が大きいでしょう?あなたの体はあそこにいるのです。」
魂は今まで見てきた哀しい花達を思いました。
そして、幸せな花達を思いました。
「あの二人の花はとても美しいでしょう?あの二人はお互いに愛し合い、あなたを愛しているので、あんなに綺麗にいるのです。あれがあなたの両親なのですよ。」
ちいさな魂はつくづくとそこに眠る顔を見詰めました。二人の花は美しく咲き、寝顔は満ち足りて幸せそうです。
「オカアサン」
そっと呼びかけると、まるで聞こえているかのように母は微笑みました。
「オトウサン」
父は軽く寝返りをうち、つぶやきました。「・・・・・・」
「?」
「あなたの名前です。一生懸命考えて、決めてくれたのですよ。」
「・・・オトウサン・・・オカアサン」
小さな魂は胸がいっぱいになりました。今、自分の心に花が咲き始めたのを感じます。人は人の心の花を咲かせられる・・・その意味を知ったのです。
天使はそんな魂を優しく見つめ、言いました。
「さあ、帰りましょう。もう夜が明けます。」
天使は光を連れて朝陽と共に空を昇っていきました。
そして・・・。
天使は一人地上を眺めていました。
視線の先には幸せそうな家族がいます。
生まれたばかりの子供を抱いて、散歩をする3人の花は、互いに愛し、愛される輝きに満ちていました。
ひとは、心に花を持っています。咲かせるのも、枯らせるのも、それができるのはひとだけです