昼なお暗い、深い森があります。そこに生きる木は皆年古く、大きく、立派に育った者ばかり。大地は苔と落ち葉と、そして木の根で覆われて土も見えず、見上げる空も木の枝と広がる葉に隠されて、青の欠片も見えないほど。上も下も、右も左も何処を見回しても、木と、木の影しかない鬱蒼とした深い深い森です。木々は皆互いに腕を伸ばしあって空を求め、体を斜めにしたり、隣の木を押しのけたり。必死で空を、光を求めて育つ姿は、もう、新しく芽生える隙間すら無いかのようです。この森は永い間同じ姿で過ごしてきました。
それでも、春になると命は生まれます。今年生まれたのは樅の木の兄弟。親はこの森のどこか遥かな場所にいました。兄弟達はまだ親の体におぶさっていた頃、こんな立派な樅の木になろう、この森で一番有名な樅の木になろう、精一杯頑張ろう。と誓い合い、それぞれの大地に旅立っていったのです。この春、芽吹くことができたのは僅かでしたが。
そんな樅の木の一人は、複雑に根と根が絡み合った森の、僅かな貴重な土に根を下ろすことができました。幼い樅の木は土の感触を確かめるようにそっと根を伸ばし、まだ柔らかい顔をあげ、そして呆然としました。
周りに立つ木々は古く、樅の木には顔を見ることもできない程に高く大きく、そして腕を伸ばし、葉を広げ・・・この地へ届くはずの僅かな光さえもさえぎっているのです。樅の木は緑の空を見てため息をつきました。
『ああ・・・なんて暗い処へ来てしまったんだろう。これじゃ生きていけない。せっかく生まれたのに、すぐに死んでしまう。』
樅の木はすっかり諦めてしまいそうになりました。その時・・・。
"あきらめてはいけない"
どこからか声が聞こえました。見回すと、少し離れた処に枯れた樅の芽がありました。冬に早く芽吹きすぎて、飢えた動物にかじられてしまったようです。枯れた木は既に死んでいました。けれど樅の木にははっきりと声が聞こえました。
"この森一番の樅の木になろう。"
樅の木は兄弟達との約束を思い出しました。"精一杯頑張ろう"と兄弟と誓った言葉を。精一杯生きよう。 生まれることができたのだから。樅の木は今一度、今度は自分に誓いました。
精一杯頑張ろう、と。
樅の木は考えました。どうやってここで生きていくか。落ち着いて周りを見回すと、どの木も必死で生きている事がわかります。
高く高く背を伸ばす為に、太くなることまで追いつかず、周りの木に支えてもらっている木。強い風が吹くたびにふらふらと、けれども決して折れたりしません。今も懸命に高く伸びようとしています。空まではまだ遠いのです。
雷にでも打たれたのでしょうか。幹の中ほどから崩れてしまっているのに、隣の木と融合して生きている木。養分を分けてもらっているお礼は、崩れて落ちた自分の体です。ぐずぐずに腐った倒木はやがて木の養分になるのです。
実は岩の上に生まれてしまったのに、下の大地まで根を伸ばして立派に立っている木。土まで根を伸ばすのに何年かかったのでしょうか。岩は太く育った根に覆われて、殆ど姿は見えません。
樅の木は死んでしまう、等と思ったことが恥ずかしくなりました。ここには光は無いけれど土がある。土と水があれば生きていける。
けれど、光がないと大きくなるのは難しい。大きくならないと光が得られない・・・。
悩む樅の木は、ふと、雷に打たれた木をまじまじと見つめました。幹は太く立派ですが、枝のない高さで折れてしまっています。光合成はもう出来ないので隣の木に寄り添っているのです。その折れた木を見つめ、樅の木は決心しました。
樅の木は生長を止めました。大地から吸い上げた養分を大切に蓄え、体を強くする事に励みました。薄暗い光でもできるだけ受け止めました。澱んだ空気を一生懸命呼吸しました。
夏が来ました。細々とした光でも下草は育ちます。生長にかけては木達よりももっと貪欲なのです。背高く伸びようとする草に埋もれないように、樅の木は少しだけ大きくなることにしました。
秋が来ました。光の射さない森の地面には木野子がいます。すぐ近くに笠をつけた木野子は胞子を樅の木の根元に飛ばしました。樅の木は養分を取られてもいいように、もう少しだけ大きくなることにしました。
冬が来ました。雪に埋もれた森の奥で、樅の木もやはり雪に埋もれました。遥かな枝から落ちてくる雪の塊が、樅の木を怯えさせました。もっと強い体を作らなくては。来年はもう少し硬くなろうと、樅の木は思いました。
再び春が来ました。去年よりも少しだけ大きくなった樅の木は、大きくなった分だけ多くの養分を蓄えられます。大地から吸い上げ、微かな光を受け、暗い空気を吸って・・・。
こうして何年も何年も経ちました。何度も夏がきて、何度も秋を過ごし、何度も冬を耐えて。そして何度も春を迎えました。樅の木は見たところ、幼い木のままでした。少しずつ、確かに少しずつ大きくなってはいますが、とても小さな木のまま、何十年も経っていきました。
その日は朝から、低く厚く雲が広がり、風は嵐が来ること告げました。森はこれからくる嵐にそなえて身構えました。
見えない太陽が傾き始めた頃から、風は次第に強くなってきました。空もどんどん暗くなります。雲が赤黒く照らされた彼方から、ぽつぽつと雨が、そして一気に大粒に。
樅の木の遥か頭上で、ばちばちと枝が打ち合う音がします。細かい枝先が落下してきます。少しくらいの雨なら降ってこない枝葉の間を抜けて、大粒の雨が体を叩きます。いつも薄暗い森の中、今はまるで闇夜のようです。近くに立つ木々が風に体を揺らすのが感じられる中、森中が嵐の過ぎるのを待っていました。
嵐は一晩中続きました。
太陽が昇ってきました。森は何事も無かったかのように、静かな朝を迎えました。
けれども樅の木にとってこれ程までに待ち遠しかった朝はなかったでしょう。嵐は何本もの木の命を奪っていきました。なぎ倒された木は、さらに何本かの木を巻き添えに大地に倒れました。その中には樅の木の近くの木もいたのです。
空が見えます。青い空です。
後もう少し太陽が昇れば、樅の木の場所まで暖かい陽射しがくるのです。
その時こそ、今まで溜めていた力を使い、大きくなる時です。
兄弟達との約束どおり、森一番の樅の木になるにはまだ何十年、何百年とかかるでしょう。けれども・・・。
今、そのための時間が動き始めました。